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宮崎の人と囲碁

宮崎に囲碁が入ってきたのは、平安時代中期頃(西暦1000年頃)と考えられます。

当初は、貴族や寺院・神社などに管理され、拡大されていった荘園も、次第に地元で実力のある武士たちに任されるようになり、世の中は武士の時代に変貌していきます。

宮崎でも平安時代末期には、宇佐八幡宮領が中心であった荘園も、鎌倉時代頃からは、有力豪族であった島津氏(薩摩藩)伊東氏(飫肥藩)土持氏(延岡藩)などが治めることとなります。

当時の囲碁の担い手は、貴族・武士・僧侶が中心です。とくに武士(武将)は、囲碁そのものが戦術訓練の基礎となるものと考えられ、修業として奨励されたようです。その際、囲碁の師の役割を果たしたのが僧侶であったようです。

囲碁が町人にまで普及するのは、江戸時代になってからです。

伊東藩と日蓮上人

伊東氏はもともと藤原氏の子孫ですが、伊豆伊東庄に住んでいたため、伊東姓を名乗るようになったものです。

伊東祐光が伊豆の地頭をしていた頃、日蓮上人が<立正安国論>を唱え、幕府の怒りを買い、伊豆に流されてきます。

日蓮上人は、囲碁の達人であり、その弟子日郎との対局譜は、日本最古の棋譜として現存しているほどです。

伊東祐光は、伊豆で日蓮上人を罪人として扱わず、深く帰依して、法華経の教義はもとより諸学全般にわたって教えを受けています。日蓮上人の余技である囲碁についても、一族家臣たちとともに伝授を受けています。

こうして日蓮宗に帰依する伊東一族は、祐光の曾孫にあたる祐持のとき足利尊氏から都於郡三百町を与えられ、日向に下向し、もともとの領地と合わせて、初代日向伊東氏となって勢力を広げていきます。1335年のことです。

伊東一族と日蓮宗門の僧たちとの交友は深く、囲碁は親善を深めるきずなとなっていたようです。

島津征久盤上之図

島津征久(ゆきひさ)は、佐土原藩の初代藩主です。伊東氏と大友宗麟の連合軍6万を相手に、その半数の島津勢3万で高城川原で戦い、勝利したことを徳川家康に認められ、佐土原藩主に任命されています。

家康は、家元制度(本因坊家、林家、安井家、井上家)を創設したほどの囲碁愛好家で、征久が江戸詰めの折は、しばしば囲碁の相手をしています。

ある時、家康が、高城川原の戦いでの征久の兵略を聞かせてほしいと所望します。そこで征久は、諸侯列座の中で、絵図面の両軍の配置から決戦終了までの動きを、碁盤と白黒の石を用いて説明したそうです。佐土原藩は、このときの絵図面を”高城川原盤上之図”と呼んで、温存したそうです。(現在は、ほとんど消失しているようです。)

西郷南州洞中の碁

西郷隆盛(南州)・洞中碁の詩

 百戦功無し半歳の間
首丘幸にして家山に返へるを得たり
笑う儂、死に向って仙客の如し
尽日洞中、棋響閑なり
熊本城の北、田原坂での敗戦の後、西郷軍は宮崎に陣を敷き、西郷隆盛自身も宮崎市に居をかまえています。史実によると、1877年5月31日から7月31日の約2ケ月間であろうと思われます。

その後、宮崎でも政府軍に敗れ、延岡・可愛岳(えのたけ)と転戦し、椎葉・須木を経由して城山に帰郷し、最期をむかえます。

その間、戦いのことは桐野利秋らにまかせて、すでに達観して悠々と過ごしていたようです。当然、囲碁も充分に楽しんだことと思われます。

西郷隆盛が山岡鉄舟を評して言った言葉。
<命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは(でなければ)、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。>

秋月種樹公の賭け碁

高鍋藩の世継である秋月種樹(たねたつ)公は、明治期の政治家であり、詩文に優れ、書家としても高名です。また、その碁仇であった伊藤博文とともに、無類の囲碁愛好家でもありました。

ある時、秋月種樹公は、高鍋藩士である石井真澄と、上杉鷹山公の書面を軸にした一幅を賭けて囲碁をします。

囲碁は、いつもとちがって、石井真澄が圧勝し、上杉鷹山公の軸をもらうことになりますが、実は、もともと秋月種樹公が最も信頼する藩士に軸を受け取ってもらうための芝居であったことに気づいた石井真澄は、あらためて秋月種樹公の寛大さと思愛の深さに感激したということです。

この軸は、今でも、石井家に家宝として保存されているようです。

なお、上杉鷹山公は、高鍋藩主の二男で米沢藩主となって数々の藩政改革を行ったことで有名です。

”なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり”

小村寿太郎と秋山真之

日南市出身の小村寿太郎は、日露戦争の終戦外交で活躍した偉大な外交官ですが、読書と囲碁が終生の趣味であったようです。

米国公使として渡航するときも、盤石を荷物の中に入れ、公使館では、囲碁を唯一の趣味としていたようです。そして、公使館での囲碁の主な相手は、秋山真之でした。

秋山真之は、その後、連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦参謀となり、日本海海戦で日露戦争を勝利へと導きます。”天気晴朗なれど波高し”という名文句は、秋山真之が起草したものとされています。(”坂の上の雲”参照)

秋山真之が海戦で、小村寿太郎が外交で、ともに日露戦争で活躍したことは、囲碁がとり結んだ奇しき因縁です。ひょっとしたら、秋山真之は、小村寿太郎と囲碁を打つことで、旅順港封鎖作戦や日本海海戦の東郷ターンなどを思いついたのかも知れません。
西郷隆盛翁駐在之跡
西郷隆盛翁駐在之跡1(宮崎市・税務署の近く)
西郷隆盛翁駐在之跡2
西郷隆盛翁駐在之跡2
西郷隆盛翁駐在之跡3
西郷隆盛翁駐在之跡3・敬天愛人

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